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後山・修験道と東粟倉文化

東粟倉地域に今も残る神秘的なスポット後山・修験道

美作市の北東部に位置する東粟倉エリアにある後山(うしろやま)は、美作市と兵庫県宍粟市にまたがっており、標高1344mで岡山県下最高峰として知られています。そして中国山地東部で主要な山岳の1つである後山は、中腹に修験場が残っており、霊山として昔から今も全国から修験者の方々が訪れています。

後山・修験道と東粟倉文化

(以下、東粟倉村教育委員会発行資料より抜粋)

山伏の行くところ鉱山あり(抄)

山伏の関わったもう一つの先端技術は製鉄である。と言うと「うっそ~。山伏は宗教家でしょう」といぶかる声が聞こえてきそうだ。しかし山伏、特に大峰系の修験者は山中に埋もれている鉱物資源を見つけだし、それを高熱で溶解して金属を生産する知識を持っていたのである。

ところで、地球上で最初に製鉄をはじめたのはトルコ半島に勢力を張っていたヒッタイト帝国だといわれ、紀元前二二〇〇年頃の鉄剣が発見されている。その技術はやがて世界中に拡散し、紀元前千年ごろには中国、三世紀には朝鮮半島にまで伝わってきた。わが国で砂鉄を原料として鉄がつくられるようになったのは六世紀ごろからで、朝鮮半島からの渡来人が技術を持ち込んだ。

そういえば修験道の開祖役小角も渡来系の人といわれる。彼自身が直接、製鉄に携わった記録はないが、修行する山の中で発見した鉱脈に関する情報は製鉄集団に伝え、開発を促したと思われる。

実際、修験道は全国の高峰に行場を設けたが、その多くでは鉄や銅、金などの採掘が行われており「山伏の行くところ鉱山あり」と言っても過言でないありさま。小角が最初に開基した奈良県吉野の山上ヶ岳からして、その西側を下った一帯が鉄の採掘場であったし、青根ヶ峰(金峰山)に建つ金峰神社の祭神は金山彦、金山姫という金属精錬の神様である。

こう見てくると、修験道固有の守護神である「蔵王権現」の名前にも秘密めいたニオイが感じられる。宗教民俗学者学の故・五来重は著書「山の宗教」の中で「大峰系修験僧が金剛蔵王権現という仏教に存在しない仏とつくりだした理由も、埋『蔵』する金属を支配する『王』という意味があったのではないか」と疑っている。

東粟倉村の後山一帯にも山伏を追うように製鉄集団が入った。名残の鉄滓は後山地区を取り巻く山のいたる所に今も残っている。これらが何時の頃から操業したか。専門家に遺跡調査を依頼すれば分かることだが、今は推測するしかない。ヒントは千種のタタラ遺跡にある。

ここは古くから「ちぐさはがね」の名で全国に知られた高品質の鉄の産地で、現在把握されている千種川沿いの製鉄遺跡だけで八十五ヶ所を超える。一部は過去に発掘調査された、そのうちの一つ西下野遺跡(兵庫県佐用郡南光町)は確認されているものの中で最も古く、操業年代は同時に出土した平安時代初期の完形土器などから「八世紀初頭」と特定されている。

後山に行場が開かれて五十年ほどのちには、後山周辺でタタラの炎が燃えはじめたということだ。 当時の製鉄法を簡単に説明するとー。原料の砂鉄は鉄分を多く含んだ山肌を削り落とし、水の流れる溝にいれる。

いわゆる鉄穴流し(かんなながし)で土は溶けて流れ、重い砂鉄は底に沈殿する。これを掬い上げたのが原料である。 一方で製鉄炉(タタラ)を造る。鉄を溶かすには千数百度の高熱が必要。そのため、七輪で火を起こすときのように送風が欠かせないが、当時はまだフイゴが解発されていなかったので、炉の設置に当たっては自然の風がよく通るところを選んだ。

場祖が決まると付近を平坦にし、そこに深い穴を堀り、石や乾燥した土砂などで埋め戻し、地下の水分が上がってこないように工夫した基礎の上に粘土で炉を築く。形は西洋の風呂桶のような長楕円形で、大きさは長さ約三メートル、幅七、八十センチ、高さは一メートルほど。壁面の厚みは約十五センチ。 炉ができると木炭を入れて点火し、以後約三十分ごとに適量の砂鉄と木炭を交互に投入する。この作業を三昼夜約七十時間続ける間に使う木炭は約十二トン、砂鉄は十トン。砂鉄は溶けて炉の底には二トン余りのケラと呼ばれる鉄塊ができる。 鍛冶がこれを種々の鉄製品に加工したのである。 鉄は文明を飛躍的に向上させた。

身近なところでは、鉄の鍬や鎌などの普及で農業の生産性は急上昇し、鉄の矢じりは狩猟の獲物を大幅に増やした。半面、タタラの鉄穴流しで濁った泥水は下流で生活する人々の飲み水はもとより、農作物の灌漑水も真っ赤に染めてしまった。公害である。 それより酷いのは山の木の乱伐。大量の木炭が必要だからタタラ周辺の山はたちまち切り尽くされ、赤茶色の地肌をむき出しにした。おそらく当時の風景が印象深かったのだろう。「通俗行者本記」は「播州には赤山、青山の二山がある」と書いており、東粟倉村史は「赤山とは日名倉山のこと。我々は現在でも『日名倉赤山』という」と注釈を加えている。青山とは後山のことで、さすがに霊山だけは乱伐をまるかれたということか。 ともあれ山や田畑は荒れ、鉄山人と農民の対立は時には尖鋭さを増した。それらが宗教的な雰囲気を打ち壊したのだろう。

行者の山は一時さびれたが「醍醐の聖宝僧正理源大師が延喜九年(九〇九)参拝人の絶えていた後山に入り、遺跡を復興して七堂伽藍を整備。これより後山参詣は再び盛んになった」(村史)としている。この頃になるとタタラ製鉄に欠かせない木炭用の木を切り尽くした鉄山人はどこかへ移動し、村には平穏が戻ったということだろうか。もともと当時の製鉄集団は「三日ダタラ」と呼ばれ、砂鉄や木炭を求めて山間を渡り歩く移動集団だったのだ。

弾圧で寂れた山岳修行

後山から山伏や参詣者が消えたもう一つの理由は、時の権力による山岳修行の弾圧である。その歴史について宗教学者の速水侑は著書「呪術宗教の世界」の中で、およそ次のように述べている。

為政者たちは修行者の験力に期待する一方、その行動に目を光らせ、七世紀末には修験道の開祖・役小角が呪術を使って人を呪縛するなどと讒言されて伊豆に流されたのをはじめ、天平元年(七二九)には左大臣長屋王が「左道を学んで国家を傾けんとしている」と密告されて失脚。その直後に「異端幻術を学び、厭魅呪詛(えんみじゅそ)し、山林に住んで仏法を学び教化する」ことへの禁令が発せられた。

追い討ちを掛けたのは弓削道鏡である。宮中に入り看病に功績があったとして称徳天皇に信頼され、天平宝字八年(七六四)には太政大臣禅師、ついで法王になり、皇位の継承を企てたが、和気清麻呂によって野望をくじかれたことで有名な僧である。 彼はもともと山林修行者で、そこで体得した験力によって権力の座を手にしただけに自分にとって代わるような新たな山林修行者の出現を凄く恐れた。

そこで大臣禅師になった道鏡は「山の宗教」を厳しく禁じた。この禁令は称徳女帝の死(七七〇)によって道鏡が失脚するまで続き、そのため山林樹下に修行者の姿は消え、山中の寺院から鐘の音、読経の声は絶えたという。 道鏡は流罪となり、山林修行は解禁されたが、それも束の間。延歴四年(七八五)には、先に『幽霊と怨霊』の項で触れた早良親王の謀殺事件に関連して疑心暗鬼の世情となり、厭魅呪詛が横行した。そこで桓武天皇は「今後は公の許しがなくて山林に入り、寺院に住み、陀羅尼を読み、壇法を行ってはいけない。

もし、そうした者がいたら捕らえて罪状を付し、早速に送検すべきで、かくまったりしてはいけない」(速水侑)という禁令を出した。 この禁令の嵐の時代、修験道はどんな状態に置かれたか。東粟倉村史によると大和・大峰も後山の参詣人であふれていたが「東の吉野山に『龍蛇』が住み、峰入りした山伏たちが帰ってこなくなった。このため東の吉野は人が絶え、逆に西の吉野(後山)は年ごとに参詣者が増えて人が充満した」が、そのうち後山にも入峰者がなくなり、九〇九年に理源大使が訪れて復興するまで山は荒れ放題だった。

この村史の文脈から判断すると、山岳宗教の禁令でまず槍玉に上がったのは修験道開基の地である大和・吉野山一帯で、検非違使に逮捕・投獄・処刑されるのを恐れた修行者は地方に避難。後山にも殺到したが、ここにも追っ手が迫ってきて、ついに美作の霊峰からも人影が消えたということだろう。 いずれにせよ明期の修験道は山岳宗教の禁令とタタラ製鉄による聖域の荒廃というダブルパンチに見舞われ「空白の一時期」を過ごしたのである。

(出典:『後山・修験道と東粟倉文化』(執筆・紀 豊/平成17年3月東粟倉村教育委員会発行)

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